しなくていいことをする。 品の大事さ。
しなくていい苦労はしなくていい、といわれる。
苦労は苦労である。
しなければいけない苦労はもちろん、
しなければいけないが、
苦労は望んでもしろ、といわれるもの。
しなくていい苦労のほうが、尊いのではないか、と思い続けてきた。
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ここ数年、絶えず心に留めているのは、
「品って大事」
ということ。
下品・上品、その区別のよしあしは置いておいて、
「品がある」「品がない」、このことの存在に留意しながら、
できるだけ、
「品」なのか、さわやかさなのか、優雅さなのか、
貴重さなのか、学びなのか、
まあ、そんな、まわりの時間や生活に対して、
良い刺激と心地よさを提供するのは大事と思うのだ。
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この2つは、実はとても密接に結びついていると思う。
品とは、意識して身につくものではない。
経験と、それを解釈するこころ、それを体験したからだ、
それらが混ざり合って、
「ここはこうだ」「こうしよう」「こう思われる」
そんな意識も含みながら、切り開かれた、身のこなしと、しつらいだからだ。
建物に、品のありなしがあるように、
やはり、なにものか語ること、学んだからだ、を持たなければ、
ないものを形にはできない。
「品」がどこかにあるものであれば、見せてほしいもんだー。
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さて、つまり、修養があっての「品」ということになる。
修養とはなんだ?
それは、普通しなくていいもの、だと思う。
水に打たれる、長いこと座ったままでしかも何も考えない、
あるいは、誰も行かない高いところに登る、
あるいは、体を自分の思いから切り離して動かす、
あるいは、悪といわれることを受け止める、
あるいは、自分の生活を省みず他人に尽くす。
「しなくていい」の線引きは、
「”日常的”・常識的な、普通の生活を送ることに寄与しないもの」
とふつうは定義されるだろう。
それはもっぱら安定自己保存にしか、効果はないものである。
今と同じを保つためのものだから。
つまり、学ぶ、という、
発展あるいは減退、いずれか変化を生み出す準備、とは相容れない。
しなくていいことはしなくていい!、
というのは、
数学が人生に何の意味がある?、
というのと同じことなのだ。
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しなくていい苦労こそ、その人となりをつくるのだと思う。
どんな、しなくていい苦労を選ぶのか。
どんな、しなくていい苦労を味あわざるを得なくなったのか。
そして、そこから学んだり、気をつけようと思ったり、
あるいは、ぶっちゃけこう思うんだよ、と思うようになったり、
そんな、自分の中の変化に気を配りながら、
そこから、あたらしい自分を再生産しようとする態度こそが、
品の源泉ではなかろうか。
人は、自分の意志とはまったく関係なく、
関係する人々の意識の中で構成されていく。
大事なのは、そんな自分のありようをあきらめず、
得た経験や学びや反省を取り入れて、
新しい自分を常に生産しつづけよう、とすることであり、
自分を再生産する、という経験そのものは、
おそらく、しなくていい苦労をする、ことを通じて、
とても明瞭に感じられ、深く捉えられるようになる、
そう思うのであります。