太陽力と、修業の歩み
春がどうやら暮れようとしているようですね。
ここのところ、自分が移動しているのか、日本が私の前をすごい勢いで動いているのか、
だんだんわからなくなるくらい、あっちいったりこっちいったりしているのですが、
頭の中に残るのは、街の風景とかではなくて、
電車や車の窓から、あるいは歩いて見かける、樹木の花と、
逢った人々の様子と、空の色です。
土曜日、新幹線からは、桐の花が見えました。 紫でした。
京都は曇りでしたが、空の真ん中はあと少しで開けそうで、白金に輝いていました。
******************************************
この春は、はじめから終わりまで、すっかり夜型の生活だったので、
いろいろな書き物が全体的に、ほの暗く、すこし痛切・切実な語り口で、
昼間読むとなんだかうるさく思えたりします。
そのときの自分を搾り出したコトバなので、うそや虚飾はないけれど、
その分、自分の底の浅さを感じ、
んー、もう少しゆったりと構えられんもんかいな、と思うのです。
たぶん、今の私には、
沈む太陽をゆっくりながめたり、
昇る陽をながめるために夜から山に登り、頂上で待ったり、
そんなことができるだけの、時間ののびやかさが欠けているようです。
それもきっと、つまり、太陽をそれだけ浴びて暮らしていないから、
ではないかと、思い至りました。
*****************************************
行かれたことのある方ならお分かりだと思いますが、
禅寺の禅堂は、ほの暗く、地面からくる凛とした涼やかさに包まれ、
言ってみれば穴倉のようなものです。
そして、修業所の中の、建物や廊下、人の衣服まで、
ほぼ黒と白しかない、モノクロームの世界です。
まるで、太陽を捨象しているような世界。
簡単に捉えれば、このように間をとりもつ穏やかな色彩のない、
緊張感と静謐さのある世界こそ、思索のゆりかごに感じられてしまいます。
入門したてなら。
でも、庭をあげるまでもなく、まわりは自然に包まれていて、
季節の移ろいとともに、自然の色彩は変化し、
それは樹木や空気や空の色に、豊かに現れます。
そして、そこから、自分の感覚がふくらみ、心がすこしずつ育まれていきます。
うそや虚飾のないからこそ見える、豊穣な時間と彩り。
まだ、すぐに、とはいきませんが、時間に対してうちとけること、
これが夏までの思索のテーマにしようと思います。
時間に対してくつろいで、逍遥すれば、
つぎのコトバたちが生まれてくるように、
太陽の光をひさしぶりにきちんと浴びながら、おもいました。
空即是色、色即是空。