太陽力と、修業の歩み | 逸脱と研鑽の公案

太陽力と、修業の歩み

春がどうやら暮れようとしているようですね。


ここのところ、自分が移動しているのか、日本が私の前をすごい勢いで動いているのか、

だんだんわからなくなるくらい、あっちいったりこっちいったりしているのですが、


頭の中に残るのは、街の風景とかではなくて、

電車や車の窓から、あるいは歩いて見かける、樹木の花と、

逢った人々の様子と、空の色です。


土曜日、新幹線からは、桐の花が見えました。 紫でした。

京都は曇りでしたが、空の真ん中はあと少しで開けそうで、白金に輝いていました。


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この春は、はじめから終わりまで、すっかり夜型の生活だったので、

いろいろな書き物が全体的に、ほの暗く、すこし痛切・切実な語り口で、

昼間読むとなんだかうるさく思えたりします。


そのときの自分を搾り出したコトバなので、うそや虚飾はないけれど、

その分、自分の底の浅さを感じ、

んー、もう少しゆったりと構えられんもんかいな、と思うのです。


たぶん、今の私には、

沈む太陽をゆっくりながめたり、

昇る陽をながめるために夜から山に登り、頂上で待ったり、

そんなことができるだけの、時間ののびやかさが欠けているようです。


それもきっと、つまり、太陽をそれだけ浴びて暮らしていないから、

ではないかと、思い至りました。


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行かれたことのある方ならお分かりだと思いますが、

禅寺の禅堂は、ほの暗く、地面からくる凛とした涼やかさに包まれ、

言ってみれば穴倉のようなものです。


そして、修業所の中の、建物や廊下、人の衣服まで、

ほぼ黒と白しかない、モノクロームの世界です。


まるで、太陽を捨象しているような世界。


簡単に捉えれば、このように間をとりもつ穏やかな色彩のない、

緊張感と静謐さのある世界こそ、思索のゆりかごに感じられてしまいます。


入門したてなら。


でも、庭をあげるまでもなく、まわりは自然に包まれていて、

季節の移ろいとともに、自然の色彩は変化し、

それは樹木や空気や空の色に、豊かに現れます。


そして、そこから、自分の感覚がふくらみ、心がすこしずつ育まれていきます。


うそや虚飾のないからこそ見える、豊穣な時間と彩り。


まだ、すぐに、とはいきませんが、時間に対してうちとけること、

これが夏までの思索のテーマにしようと思います。


時間に対してくつろいで、逍遥すれば、

つぎのコトバたちが生まれてくるように、

太陽の光をひさしぶりにきちんと浴びながら、おもいました。



空即是色、色即是空。