美酒の向こう側にあるもの | 逸脱と研鑽の公案

美酒の向こう側にあるもの

今晩は、皆さん。
久々に、庵に漂い着きました。

最近、とんとご無沙汰でした。すみません。

こんな低姿勢な書き方も良いかもしれない。

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ここのところ、久しぶりに、手で文字を、文章を綴ることが多い。
どういう風の吹き回しかこのひねくれ者に、文章を書いて、書け、という要請や恫喝があるのである。

仕事では、いかに文字・紙数を減らしながら、
ほんとうに大事なアイディアや、ディティールの輝きを伝えきるか、に血道をあげていて、
時折わき起こる文章作成欲求は、ブログに流し込むことで佳しとしていた。

んが、文章である。
時として、童話だったり、書評だったり、時評だったりするのだが、
仲介者はとても無表情に、句読点の量と文章構成の矛盾などを数点指摘しながら、
その場で直させ、持ち去る。

まるで、太陽の光を浴び、水分を調達して、
せっせと栄養をつくり、栄養は持ち去られ、一緒にできた水分を気孔から出す、
樹木の葉っぱにでもなった気分である。

物書きは機関なのだ。仕事だから。

そんな産業機構に知らない間に取り込まれながらも、
文章を書き連ね連ね連ねまくることにより、自分の言葉の志向性と好みに気付いた。

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・生活=「漂う」という意識に満ち満ちていること
・行為の背景に、感謝や愛情がないと、苛立つこと
・世の中の「普通」そのもの、そして「普通」からはみ出たもの、「普通」が歪んだ瞬間、に
 とても興味関心を持つということ
・私がわたしとしてあるのは、もっぱら「言葉」に依るという意識が強いということ

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何のことだか、とお思いかもしれない。

自分を観察しながら、そして、
たくさんの文章を短期間に書いて繰り返されるコンテクストを整理して、
気付いたこれら。

ほんとうの私のことかどうかはわからないが、少なくとも、
現時点の私は強くこの5点に依り、縛られ、滞っているようだ。

今日は、この2点目について、軽く触れる。

私、実は、お酒に呑まれたことがありません。
お酒はたくさん飲むし、酔っぱらって手元が危うくなったり、寝ちゃったりすることはありますが、
「酒を飲むこと」に酔い、さらには「酒でいつもと違う自分になろうとすること」を飲む動機とし、
その結果として「なんだかわからないがぐちゃぐちゃ」な状態になる、
そんなことはないのです。

これは、一つ自慢できることかも。
それはそうとして、なぜそうなのか。

目の前に有るのは、泡立ったり、赤かったり、香しい琥珀色だったりする物体(液体)ですが、
すべて、人と大地と天候がつくるもの。

私が好ましいと思い口にするお酒は、私の口に入るまでにとても多くの人たち、物事を経てここに有る。

人の想いや物事の具合、そんな不定形な、普通は時とともにうつろい感じられなくなるコトが、
連なり組み結んで、目の前のおいしいお酒として受肉している。

少なくとも作り手は、自信と不安を抱きながら、「おいしく味わってほしい」と思っているでしょう。

伝え手に責任があるように、受け手にも受け止める責任があります。
お酒を飲むという行為は、作り手/伝え手のココロを、体で受け止めることであるべき。

恥ずかしいことですが、どこかでこの意識が働いてしまうのよ。
だから、闇雲に、酒を浪費する、暴飲するということをしない。

じゃあ歩くとか、息をするとか、見るとか、そんな単純なことでもそうなのかよ、と言われるかもしれない。

確かにすべからくそう思っているかと言われると分かりませんが、
何も感受することが無い時間は、とても無駄に感じ、苛立つことは事実です。

三十路になると、老いを意識するし。

浪費するということは、身を疲れさせ萎れ、自分の若さを喪うということです。
今はそう思えてなりません。

美酒が美酒であるのは、おいしくいただく気持ちがあるからです。
ただの「酒」として飲んでいたら、美酒は美酒とは思えなくなるでしょう。

美酒を美酒として受け止める気持ちがあれば、
作り手の想いや、美酒パワーなどが、体にきちんと入るはず。

そうして、強い一歩を踏めるはず。

新鮮な体験は、新しい言葉を生みます。
一体全体、わたしはこれからどれだけ新しい言葉を、腹から出せるだろ。