寒い男だらけの夜 月も見えず 耽読しつつ 酒は減る
知らない間に、人生の岐路に立っていると感じた。
あと一年しない間に、本当は、自分の環境は様変わりする。
実は、私は、来年1月より、渡欧しみずからの足下を改めて固めようと思っているのだ。
悩みは、果たして今の環境をどれだけ持ち込みうるかである。
変化のための渡欧であり、そのために、自身にも変化が必要だから。
はたして、いったいこの一年無いあいだに、どれほど手のひらから零れ落ちていってしまうのでしょう?
すべては、未来のみぞ知る。嘆いても、予測しても、何の役にも立たない。
変化の準備のためには、今の自分を、未来のために、おもうまま変えていくしかないのだ。
そうこうして、身近なところではオリンピックが終わった。
***********************************************************************
オリンピックについて多くを語らないが、今回のそれで私が深く感じたのは、
オリンピックは人類の資産であり、
栄光はひとえに、人類の努力と挑戦の果てにある、
たったのひと時を、いかに美しく過ごすか、それにかかっている、
ということである。
貨幣価値には変換しえない、ただ感性にのみ訴えかける、
一瞬の輝きに、評価が与えられていた。
それは、ほんとうに、切なくも正しい、人類の人類に対するエールであると感じた。
だから、今後一切、特にスポーツについて、我々は私利私欲、国威高揚の意識を破棄すべきである。
美は、理性や悟性と同列であり、かつ、それらに刺激や緊張を与える存在であるべきだ。
きわめて近代的感性であるが、しかし、五輪の思想も近代の所産であり、
現代に生きる我々は、近代の所産を畑として、自らを養い明日へ新しく日々生まれていくべきである。
そこには、商業も、産業も、見栄も、入り込む隙間はない。
自身そして彼をサポートするすべての者達への祈りが、
そこにひとひらの時とともに変化する花として結実する。
そこに、スポーツという、二度と繰り返すことのできない関数のひらめきがあるのであり、
そこにこそ、我々はすべての意志・感動を懸けるべきである。
それが、一体どこの国の人、どこの誰、であろうと、関係あるであろうか。
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そして、我々は、意志や努力や、祈りの果てとしての美を知るのである。
果たして、私は来る自分に対して、どれほどの意志や努力や、そしてその祈りの所作の果てを
生み出すだけの運動を致しているのだろうか。
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ところで、最近、身近な友垣と、大正~昭和初期について関心を深めている。
明治は、幕末という万人の関心を集める融合炉の第一生産品であるから、
意外にあらましを理解している。
しかし、今に生き、昭和の後期に育った我々は、特に、大正後期~オイルショックまでの時期を、
「忌まわしい時期」「泥濘のうちに現代を模索した時期」として、
曖昧な者としてとらえているにすぎない。
どうして、これほどに、私たちの多様な多種な祖先が、それこそ、それぞれの前進のために、
身命を費やした時期の知見が薄いのだろうか。
この時期を適切に評価しないうちに、私たちの生も、私たちの礎も、無い気がしているのだ。
教育的歴史への反省を確認することのみでは足らない、
この時期の原罪も汚泥も輝きもすべて、受け止める態度と度量が、私たちには求められているはずだ。
それは、時間の流れを受け継ぐ者としての、当然の意識である。
そう、思うようになった。
日々、各国のフロントランナーと交わるうちに。
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のぞむべき、私の未来は、かようなそれぞれのバックグラウンドと真摯に突き合う各国の今後を担う
人々とのふれあいである。
さあれば、いかでか、私がそれをせざるや。
そこには気概や誇りが重要とはされていない。
むしろ、そこで何らか育まれ、打ち捨てられた、意識/歴史の樹をどう受け継ぐか、の意志である。
意志こそ、明日を拝み向き合うのに必要な態度だ。
そう、身近な祖先の生き様から学びつつある。
昔の私が、見えないようにし、さけてきた、過去の人々の意志に向き合うこと。
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最近、志ん朝の死後、志ん生の口伝本やらの、熟成された口語のテクストや、
宮本常一をはじめとする、生の史学者の所産をあらためて学び思った。
あいまいであるが、しかし、一本気な今日の偈はかくのとおり。
目をそらすことは簡単だ。しかし、それは、その目をそらした時間に対して、浪費と言える。
目をそらさず、果たして、何を感じるのか。
涙や感情の推移といった、陳腐な結果を超えて、今の自分に活かす、
そういう、たいそう叙情的な態度とまなざしから、
接ぎ木し遺し発展させる、われらが歴史が生まれる。
体を歴史に対し賭することから、時間は豊かに育ちだす。
そう言いたいし、今は是非そうであって欲しいものだと思う。
はたして、私は、どれだけ、このたいそう豊かな文脈を活かし、
人生を太くすすめるのであろうか。
楽しみである。
あと一年しない間に、本当は、自分の環境は様変わりする。
実は、私は、来年1月より、渡欧しみずからの足下を改めて固めようと思っているのだ。
悩みは、果たして今の環境をどれだけ持ち込みうるかである。
変化のための渡欧であり、そのために、自身にも変化が必要だから。
はたして、いったいこの一年無いあいだに、どれほど手のひらから零れ落ちていってしまうのでしょう?
すべては、未来のみぞ知る。嘆いても、予測しても、何の役にも立たない。
変化の準備のためには、今の自分を、未来のために、おもうまま変えていくしかないのだ。
そうこうして、身近なところではオリンピックが終わった。
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オリンピックについて多くを語らないが、今回のそれで私が深く感じたのは、
オリンピックは人類の資産であり、
栄光はひとえに、人類の努力と挑戦の果てにある、
たったのひと時を、いかに美しく過ごすか、それにかかっている、
ということである。
貨幣価値には変換しえない、ただ感性にのみ訴えかける、
一瞬の輝きに、評価が与えられていた。
それは、ほんとうに、切なくも正しい、人類の人類に対するエールであると感じた。
だから、今後一切、特にスポーツについて、我々は私利私欲、国威高揚の意識を破棄すべきである。
美は、理性や悟性と同列であり、かつ、それらに刺激や緊張を与える存在であるべきだ。
きわめて近代的感性であるが、しかし、五輪の思想も近代の所産であり、
現代に生きる我々は、近代の所産を畑として、自らを養い明日へ新しく日々生まれていくべきである。
そこには、商業も、産業も、見栄も、入り込む隙間はない。
自身そして彼をサポートするすべての者達への祈りが、
そこにひとひらの時とともに変化する花として結実する。
そこに、スポーツという、二度と繰り返すことのできない関数のひらめきがあるのであり、
そこにこそ、我々はすべての意志・感動を懸けるべきである。
それが、一体どこの国の人、どこの誰、であろうと、関係あるであろうか。
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そして、我々は、意志や努力や、祈りの果てとしての美を知るのである。
果たして、私は来る自分に対して、どれほどの意志や努力や、そしてその祈りの所作の果てを
生み出すだけの運動を致しているのだろうか。
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ところで、最近、身近な友垣と、大正~昭和初期について関心を深めている。
明治は、幕末という万人の関心を集める融合炉の第一生産品であるから、
意外にあらましを理解している。
しかし、今に生き、昭和の後期に育った我々は、特に、大正後期~オイルショックまでの時期を、
「忌まわしい時期」「泥濘のうちに現代を模索した時期」として、
曖昧な者としてとらえているにすぎない。
どうして、これほどに、私たちの多様な多種な祖先が、それこそ、それぞれの前進のために、
身命を費やした時期の知見が薄いのだろうか。
この時期を適切に評価しないうちに、私たちの生も、私たちの礎も、無い気がしているのだ。
教育的歴史への反省を確認することのみでは足らない、
この時期の原罪も汚泥も輝きもすべて、受け止める態度と度量が、私たちには求められているはずだ。
それは、時間の流れを受け継ぐ者としての、当然の意識である。
そう、思うようになった。
日々、各国のフロントランナーと交わるうちに。
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のぞむべき、私の未来は、かようなそれぞれのバックグラウンドと真摯に突き合う各国の今後を担う
人々とのふれあいである。
さあれば、いかでか、私がそれをせざるや。
そこには気概や誇りが重要とはされていない。
むしろ、そこで何らか育まれ、打ち捨てられた、意識/歴史の樹をどう受け継ぐか、の意志である。
意志こそ、明日を拝み向き合うのに必要な態度だ。
そう、身近な祖先の生き様から学びつつある。
昔の私が、見えないようにし、さけてきた、過去の人々の意志に向き合うこと。
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最近、志ん朝の死後、志ん生の口伝本やらの、熟成された口語のテクストや、
宮本常一をはじめとする、生の史学者の所産をあらためて学び思った。
あいまいであるが、しかし、一本気な今日の偈はかくのとおり。
目をそらすことは簡単だ。しかし、それは、その目をそらした時間に対して、浪費と言える。
目をそらさず、果たして、何を感じるのか。
涙や感情の推移といった、陳腐な結果を超えて、今の自分に活かす、
そういう、たいそう叙情的な態度とまなざしから、
接ぎ木し遺し発展させる、われらが歴史が生まれる。
体を歴史に対し賭することから、時間は豊かに育ちだす。
そう言いたいし、今は是非そうであって欲しいものだと思う。
はたして、私は、どれだけ、このたいそう豊かな文脈を活かし、
人生を太くすすめるのであろうか。
楽しみである。