公表と責任 | 逸脱と研鑽の公案

公表と責任

最近、新聞をとろうかな、と思い直した。

かなりの情報はY!Newsから昼夜問わず取れるし、
むしろ、知りたい情報もネット経由で恐ろしく大量のアーカイブを参照できるし、
と、5年以上思っていたが、ここにきて最近新聞っていいよなと思う。

一つは、テレビもネットも、
スピード勝負の無吟味/無責任/享楽性高い情報の乱発が、
ことこの文化爛熟期である日本において、たいそう顕著となり、
ゆっくりと、印刷物を総覧するという、
「固形化した情報との交わい」への渇望が照かになってきているということだろう。

そして、一昨日のコメントでも書いたが、「覚悟」というまなざし/姿勢への重視感が、
私の中で高まったからだと思う。
すくなくとも、書いた物がリアルに印刷される者と、単に垂れ流しなにも残らない者との、
覚悟や含蓄の差はあると思う。

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Blogを書いていて何ではあるが、公表には責任がつきまとう。

学校時代を思い出そう。
手を挙げ、意見を言うことは、特に中高時代、さらには、大学時代は、しんどかった。

それに比して、小学時代は容易かった。
思ったことを言えばよかったから。

思う>手を挙げる>指名される>云う>反応がある>終わる

このモデルは、実は現今、あるいは伝来の、テレビのモデルである。
番組が作られ/番組の中で取り上げられ、発声され、終わり。

たとえば、「思いっきりテレビ」を取り上げよう。

毎日毎日、健康健康と云い、さらに多様な「健康にいいもの」をかれこれ幾歳月語り続けている。
しかし、その都度登場する、教授や研究者や体験者、相互は決して相容れないことが多かろう。
それでもなお、「健康」という「切り口」で、新しい「切り口」から出る液を、分析/拡大して伝え続けている。

要は、自らの一貫性ではなく、その都度の「確からしさ風」が重要であり、
なにしろ「健康」は「お金」「将来」にいや増して、生において重要ファクターと思われやすく、
結果、最大多数を充足できる情報として、日々、矛盾や個別間議論は捨象し語られ続ける。

だが、ものごとの「最大多数」とは「最小希釈」の言い換えであると断定してもよろしいと思う。

つまり、みなが納得/安心/受容できるものは、往々にして、みなが「まあこれくらい」と、
主体的関心を持たず、周りを見渡しながら思うものであり、
そもそも”主体的関心なく””まわりを見渡す”ものだからこそ、うすーい、やわーい、ことに
すぐに陥る。

それが日常的に反復されれば、それだけ、希釈さの蓋然性は高まってしまう。

そう、テレビは、印象を残し、その記憶を物体として残さない故に、
即時性や目新しさを優位性として持つが、
同時に、反復や、瞬間最大多数化や、流動的であることから、責任性はたいそう薄い。

新聞は、印象を残し、実態を同時に残し、一日単位の区切りと、印刷面の豊富さを優位性として持ち、
その結果、残り、瞬間印象+継続記憶への配慮や、一貫性から、自責の念は強かろう。

まあ、実際、なんらか責任を回避する言い訳も自らで紙面を割いてできるメディアでもあり、
それを背景として、偏向主張も可能ではあるのだが、
主張に対しては、読者の態度で取捨ができるので、
あとは数有る新聞の中から、
信頼できる/主張に耳を傾けたい/その主張の取り入れ・確認が重要、と思われるものを選べばよい。

確かに新聞配達員の勧誘/集金/俺の顧客意識は副次的な面倒臭さではあるが、
それも、新聞を読み・選ぶ上での、読み手の選択意識の鏡として消化できなくないから、
よほど、望もうが望むまいが、情報をひたすら垂れ流すテレビとは、
選び手として自身が問われるので、よりよい時の過ごし方のようにも思われる。

新聞を読むということは、それが、主張拝聴と自己選択の意識と責任の上に成り立つ以上、
本当は、日々、他者の主張を体験し、それを鵜呑みにしない、
人の意志/意見への造詣を深めることになると思い至った。

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残念なのは、テレビはみずから時流という主張の総体の体現者と自負していることであり、
それを、我々はよいことにしているということである。

まったく、衆愚制そのもの、デマゴギー社会の有り様そのものである。

しかし、文化も時流も時代も時間も、実際は語られるよりも実質はもっと豊かで、
だからこそ、テレビをはじめとした、自己保存メディアの狡知を放って置いている。

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さあ、もうメディアのことはおいておこう。

ブログもしかりであるが、何事か、自分の意見を披瀝することは、まったくもって恥ずかしいことである。

営業活動や提案活動が、実際とても敬遠されうるのは、その恥ずかしいことをする、ということや、
恥ずかしいことを受けることが、正直しんどいからではなかろうか。

大事なのは、その中で、いかに今生きる自分を賭し、その瞬間の説得力や輝きに時間を費やすか、
ということである。だから、上記の発信する側の仕事が、価値や対価あるものとして依然あるわけだ。

少なくとも、自ら発することのない人であっても、
他者の云うことの、何が主張で、なにがそうでなくて、その人が何を伝えたいか、を、
きちんと聞く耳をもつべきでないだろうか。

いまや、発信者の代表者、メディアが、
自身の理想をかなえられずしかし勢いずいて、結果として何ら「信頼に足る情報」を流さない
このご時世で。

もはや、意見を疑う必要はない。
むしろ、いかなる意見であろうと、その語りを自身の尺度で評価すべきである。

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自分を他者、それも複数の他者に対して、ぶつける/申すことはつらくしんどいことである。
相手のことを考えると、何も言わない方がよく、あるいは、
あまり影響力のないことを言うのがよいかもしれぬ。

しかし、そこで伝えたい、という思いは成就するのだろうか。
しかし、そこで「私」の意志や意見はきちんと残せるのだろうか。次へ、行けるのであろうか。

人に伝えようとする以上、確かに自分が伝えるべきことを考え、自ら意見し、それに責任をもつべきである。
それは、その瞬間の自身の生そのものの純粋スケッチであり、
ヒトの生きた歴史を構成する大事な言葉になるものである。
その志ではじめて、風説でも伝説でもない、リアルな歴史が生まれるのである。

公表しない、ということは英断ではなく、公表すべきことを正しいと信じ、
伝わることを切に祈りながら伝えることこそ、英断であり、責任のある態度である。
それ以外の情報は、実は、そもそも聞くに値しないことだ。

公表には、このような責任が伴うべきだ。
責任を伴うつもりのない発信は、ただのノイズである。

ここで、今日は締めくくろう。