どうでもいいことだが:政治談話 | 逸脱と研鑽の公案

どうでもいいことだが:政治談話

最近、政治動向が気になっている。

神の右手とはよく言ったもので、案外選挙というものは、正しさを示すものである。
論理的な正しさ、民俗的な正しさ、時流的/歴史的な正しさ、小説的な正しさ、
それらいろんなものをまとめて、「はい、こんなん出ましたけど」と、はっきりモノを言う。

そのプロセスに参加することは、結果の正しさをより確からしくするわけで、
一票の重みも、単にN数的なもの以上に、参加という体験の中にあると考えられる。

で、政治が気になる理由は、どうもマスコミがつくりたい文脈の中で、
「世論調査」という、多分に恣意的な調査であっても、
その文脈に反抗しており、マスコミは対応に?マークを常に提示してしまい、
そこに彼らの目する文脈そのものののつまらなさを露呈しているからだ。

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さて、なんにせよ、政治的論点の中心となる、
現今政権のあるパーソナリティに規定されがちな指導者の思考/志向/嗜好について。

わたくし、お仕事で、かれのプレゼンテーションを目の当たりにしたことがある。

そこでの第一印象は、
「なんて、同じプレゼンで同じことを何度も言い、そしてとりとめもないのだろう」
という、意外なことであった。
マスコミ情報からでは、彼はパシッと言い、それで済ます風であったのに。

何事も自身の第一印象に左右されるため、
それ以後、かれの評価は拙僧的には低かったのだが、
ここにきて、慎重に吟味したところ、わかったことがある。

この業務、都心に新しい街ができた、勝ち組文化の中心となった、
など世相的なトピックとなり、結構報道されたのだが、
そこでのこの政治首班のコメントは、
そのプレゼンテーションの不味さに対して、
語られた言葉達の中の主要な部分を適度に抜き出し、
とてもわかりやすく紹介されていた。

つまり、報道にあたっての編集過程で、
いろいろ語られた言の葉は、シンプルなメッセージに昇華され、
広く皆さんに伝えられたのである。

これこそ、実は彼の首班殿の狙いではないかと思うようになった。

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案外、編集者というのは、より重要に考えられて然るべきと思う。

彼らは、どんなに仕様のないタレントの駄弁ですら、
一冊の本に、それなりの読み応え、読みやすさとともにまとめあげるチカラを持っている。

そもそも、発話や発声が、オピニオンとして社会化するためには、
これらのプロの思考や志向や嗜好が重要であるとすら言える。

さて、彼の首班に関し、彼の政治家としての特筆すべき資質は、
その政治家らしい、「ここが俺の肝」意識について、
自分の論点を明瞭化し、
それを際立たせるにあたり「編集者」の作用を非常に自然に活用できる、
ということではないかと思う。

実は、私が立ち会った彼のプレゼンテーションに関しても、
おそらく彼の言いたい論点はひとつに集約されていて、
それをいかに編集者がよく引き出しうるかを任せるために、
同じことを何度も言い、引用点を絞らせたのではないかと思うようになった。

なかなかやりよる。

この彼の、論点明瞭化力と、彼自身たぐいまれな編集者としての資質に依って、
今の政治はあると思う。

その象徴としての、郵政民営化を思う。

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この問題は、なるほど国民の一般意識にとっては、たいしたことではない。

が、今回の選挙、彼(および彼のブレーン)の編集力によって、
これが論点化されているが、これは、実際、大変象徴的なメッセージであると思う。

対競合、つまり民主党に対しては、
・彼らが主要な論点にしたい、二大政党化を一部陳腐化する。(なかなか応じにくい論点だから)
・実は寄り合い所帯である彼らを明確化する。
  ー郵便局の労働団体すら支持母体とする民主党が真っ当に論点化できないポイントであり、
     他方で、この郵政民営化を強烈に支持する母体も彼らが持つため、党内紛争となりやすい。

顕在化した競合、つまり自民党内部抵抗勢力に対しては、
・中庸かつ最大公約数的な、地元利益だけを追求するオールドスクール議員連に対して、
 地域利益誘導型から国益/歴史益思考型への踏み絵となる。
・正しいことである、国家公務員の総数減(つまり国家コスト減)に対し、きちんと向き合わせる

現在の世界を動かす、米国、そして、米国経済界に対しては、
・年次要望書の筆頭課題に答える
・世界規模での市場(特に金融市場)成長の原資を提供する

マスコミに対しては
・劇場化している、と批判しながら、自らそれを再生産しつづけるマスコミの浅さを利用する
・志向を隠蔽しながら、首班の思考と嗜好のみを論点化させ、わかりやすくさせる、

などなど、すべて、彼と彼らにとってプラスな効果しか生まないのだ。

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これは単に推論ではなく、おそらく、彼らはここまで計算している。

そして、最も重要な彼らのある種健全な志向は、
政治を今の単なる利益再分配構造から改変し、
世界に対する国家として、国家の為の運営組織体に進化させる、ということであろう。

つまり、「地元利益誘導」という本来は地方政治の役割である部分を、真に地方化し、
国家レベルで討議し検討すべきことを、国家レベルの政治に正当に負わせる道筋づくりである。

ここにおいて初めて、
マスコミでは「刺客」と言われる、中央から派遣された候補たちの意義がある。

だいたい、国家レベルの代表者選出にあたり、単に地元利益誘導だけを志向した、
地元出身者しかない、ということのほうが、よっぽど変なのだ。
だって、地方のことを考える選挙は別にあり、
国家のことを考える選挙こそ本来あってしかるべきなのだから。

怖いのは、彼らは、この正当な志向を達成しながら、
マスコミ論点を、「刺客」という彼らの狙いとは別のところで操っているというところである。

心有るものには響かせながら、わかんない人々も踊らせる、
この手法こそ、本来政治の持つべきことなのかもしれない。

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我々は、今、何が語られているか、より注意深く観察すべきである。

語るだけ、批評するだけなら、簡単だ。

だが、その語りは何を志向しているのか。

批判/批評は、少し考えさえすれば誰にでもできるので、容易であるため、
実は、現在、マスコミにせよ、評者にせよ、大部分の政治家にせよ、候補にせよ、
本当の政治的オピニオンなしに、単に批評者になっているだけである。

この人は、何を言いたいんだ。

それを絶えず考えれば、
本当になにかしたい人と、
単に比較や讒言をして、自己や自己の一派だけを利したい人なのかどうか、
すぐにわかりそうなものである。