公案2-1 かみなりとつながり | 逸脱と研鑽の公案

公案2-1 かみなりとつながり

すっかりひとあしはやいお盆休みを取り、また、旅にでていた。
旅先は四国、高知。
いまや全国区の祭りとなったよさこい祭りもあり、飛行機チケットが高かったため、
香川/高松空港in-outで、レンタカーで、うどんなどをいただきながら、
高知に入り、適度に隔絶した、しかし開けたところで、ひさびさの「夏休み」感を満喫した。
ただ、もはや市中に転がるワイヤレスインターネット回線依存型になっているため、
ネットにはまったくつなげず、結果、本公案も、しばしのお休みをいただいておりました。

この旅については、追々書きます。

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さて、今宵の東京は、雷&大粒の雨である。

生来、おとなしめの生活ではあるが、
こと普段と違う天候に対して、異常に興奮し、それを味わうことを楽しんでしまうたちである。

台風がくれば、同じ趣味趣向の父親とともに、風速40Mとかの中で追い風を受け走ったり飛んだりしたり、
地震がくれば、昔の地学学習の糧を生かし、P波とS波の到来時間差を計り、震源地を想像したり、
増水した川で、水の際に立ちすくんだり、
雨が降れば、傘嫌いも手伝い、ずぶぬれになりながら闊歩したり、
と、仕様もないことに、ライブな悦びを得ております。

さあ、今日の雷雨、そのさなかで、我が家では奥様に怒られるまで、
窓を開け風を味わい、怒られた後は、ベランダに出て、ワインを空けつつ、雷と風と大粒の雨を、
鑑賞/体験/披瀝しておったわけです。

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そのさなか、雷について、そして、それが言葉も含め背景に持つ、水恋いとの関連性について、
思いを馳せました。

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雷は、よく知られている通り 神ー鳴り でもあり、
その破壊的力と音響もあって畏怖されている対象でもあります。
そして、その姿形からも、「龍」との関連づけも多くされます。

そして、雷は空雷ということもあまりなくて、一緒に雨もやってくることもあり、
水という、生命維持伸張にとって巨大な関心事と、雷と龍と雨は、
強い結びつきを、すくなくとも、倭文化にあっては、持っておりました。

龍について、さらに掘り下げれば、蛇行し時として氾濫しながら水をたたえる、
河川も、形からか龍の発現とされ、結果、土地の水回りに関しては、
水神=龍 と考えられ、おおきな宗教役割と畏怖をもってきました。

人間とは、多く功利に意識づけられるもので、生命に関わる水に関し、
視覚化や物語化するために、これほどの文脈を、民族総出で構築し、崇め祀ってきました。

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なるほど静的に紐解くとこんな民俗学的なことになりますが、
これほどの文脈が残り、時に強められながら、今日まで残っていることの理由について、
やはり、自然のパワーを感じるときの、私の中で明確に悦ばれる「ハイ」な感じにこそ、
多く真実が含まれるような気もしています。

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「普段」とは愛おしまれるべきこと、守られるべきことだと、社会生活の中で感じます。
と同時に、自然の中に一人放り込まれたとき、「普段」は消え去ってしまいます。

山は勝手に崩れたりし、地震は何の気無しに起こり、
そんな大きなことだけでなくても、
川の水の流れ、風の流れ、それについても、一時だって全く同じ流れはありません。

自然に包まれ、放り込まれたとき、人の間に居るときと全く違って、
自分がそのへんの石や草の葉と同じような、全体を構成する一要素になり、
意識も自然の中に埋没してしまいます。
しかしそれは別に不快ではなく、案外楽しく、気持ちのよいものです。

「普段」という観念は、やはり観念である以上、人が発明したもので、
人の間で意味をもつものです。
それに対して、自然の中にあると思うとき、
観念の拘束がほどけ、より原始的な感覚がわき起こってきます。

雷を見、聴き、震動を感じて、モリモリと芯に流れる、
「ウンババー」とでも叫びたい衝動は、
つまり、自然の中にあるのだな、というマインドに一気にスイッチした証拠なのでしょう。

雷がきわめて象徴的にそれを沸き起こすのは、
地面と天の間を一瞬でつなぐ紐のようにある、その形が、
光と音のスペクタクルの中で、バシッと現れるからかと思いました。

突然で、粗暴で、予測不能なれど、
一気に天と地をつなぐ力。
人の間では生み出すことのできないものです。

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こんな事態に観念はもろくも崩れますが、
しかし、長い間に我々の文化文明は、こんな一瞬の事態にも、
図柄である龍と、その物語を生み出し、
つまり、人と人の間で交換可能な、イメージとコンテクストをつくり、
文化に取り入れてきました。

その中にあっては、さすがの神鳴りも、ゴロピカドンのようになり、
「普段」の中で、案外生き生きと楽しげにしています。

自然は畏怖すべきもの、快をもたらすもの。
人間の、特に想像力は、巧緻で、楽しまれるもの。

この両者の間を自由に行き来する雷は、
自然と人間をつなぐ、紐のようなものであるとも言えます。

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このエッセー公案はかように結びます。

どれ一つとして全く同じモノがなくとも、
それが、同じ一つのことを感じ思わせる限りは、
同じである。