公案1-3 心配とテキトウさ | 逸脱と研鑽の公案

公案1-3 心配とテキトウさ

ヒトはヒトと関わりを持つ。

金八先生により再確認された、この、人の成り立ちについて、
あまりにわれわれは安易ではなかろうか、というのが今回の公案である。



日々、なにがしかの専門者として食い扶持を得続け、
はたとふりかえっておもうのは、
自分自身、たいそう職の中で喜びや充実をおぼえるのは、
なんらか命をかけた思いがあった場合であるということだ。

命の賭け方に大小あるにせよ、
少なくとも、今ここで生きる自分が、この先で生きる自分を賭して物事にあたった場合、
とても自分に、学習や成果をもたらすと実感している。
そしてさらに、関わる人、さらにその先の人々に対して、
己の意志がどうにか伝わり、己の振動が伝わった思いをする。

うまく行ったか、そうでないかは別として。



さて、心配という事象に関して。

人々との関わりの軽重を問う側面で、
いかに自分はその人を思い、心配できるか、という秤は用いられる。

しかし、心配とは、その深刻な見え面と異なり、たいそう容易く生まれうるもの。
2週間先の天気を思うのとおなじように、よそ様に対する心配は生まれうる。

本当に大切な人への心配と、どうでもいい人へのそれの差は、
そこに、テキトウさがあったかどうかと思うようになった。



バスでたまたますれ違った人がこける、
自分の身近でとてもいろんなものを共有する人がこける、
己の飼い犬がこける、
取引先の人が、ふとした段差にこける、
いずれのケースでも、
多く我々が発する言葉は、「大丈夫?」という言葉だ。

客観的には、おなじような心配の発露に見えうるが、しかし同時に、
これほど、客観的な者に、
その人がいかにその相手を思い気遣うかが現れる局面もないであろう。



私個人の経験でいうと、実は、
バスでたまたますれちがった人への心配こそが、
もっとも切実なものである気がするのである。

人は人に慣れると、慣性が働き、流れが生まれ、
とても曖昧な「ノリ」なるものが間に生まれるものである。

利害関係が如実な取引先との関係は、自ずからとてもドライな関係を生むのだが、
それに次いで、きわめて身近な間柄こそが、
劇場の俳優張りに、決められた心配風の台詞を語ろうとさせてしまう。

そこで生まれる、「大丈夫?」のなんと薄いことか。

あげくに、「心配だ。」などと言ってしまい、薄さは際立ってしまう。

こんな浅はかな表現すら飲み込み、密な関係を持続させることに、
身近さのチカラはあるのだが、
他方で、この身近さによっかかり、相手方に負荷すらかけてしまう「あやうさ」こそが、
より意識されてしかるべき物事であろう。



心配事の度合い、そこにおけるテキトウな話し振りと、表現が向かう相手との距離は、
どうも、二次関数のY軸に対する放物線のような関係にあるのではなかろうか。

相手との距離や近しさ、親しさが、
自分自身でコントロールできる範囲を超えてしまったとき、
心配事は身につまされる、リアルな感情となる。

相手との親しさが、赤の他人レベルになっているとき、
心配事は素直さをもちうる。



相手を心配するとき、
心配する自分自身と、心配される相手のことを、
自分のなかで、一度反芻してみた方がよい。

そこで、何かを演じ、何かを確かめようとする、
心配する気持ちの根っことは相反するものが有る場合、
それはもはや心配ではなく、ただのテキトウな、浪費される、想いにすぎない。

そんなものは、実は、心配される側には、ゴミである。

このエコロジー隆盛のおり、人間に置ける最大の浪費にして気づかれないもの、
感性の無駄遣いに、もっと気遣いがあってもよかろうに。



この箴言めいた公案は、以下でしめくくろう。

テキトウな心配は、心配ごとすらも心配におもわせ、
あくまででたらめな、ないののと同じ、迷惑な波風である。

毒にも害にもならないものは、捨て去ってしかるべきである。

合掌