公案1-2 おしろいの本質 | 逸脱と研鑽の公案

公案1-2 おしろいの本質

仕事の関わりで、年に数回、京都に行く。

仕事の関わりであれば、普通、先方の事務所やら打ち合わせ場所やらに行く、
というのが普通だが、目下関わっている仕事は、
なかなか訪ねられない、寺社や庵、料亭やお座敷などに、お邪魔することが主である。
ひどいことも多い仕事であるが、こういうところは役得である。

公案のくせに生臭な話であるが、今回は、
この過程でおしろいについて思ったことを取り上げる。



小さな頃、「これ舞妓さんゆぅて、和の文化に身をやつしきった人や。」と、
写真やら遠目に実物など見させられながら言われて、
こんなおしろいのお化けが、和の文化ならば、なくなってしまえ、
と内心思ったものである。

おしろいを白ボケするほどに振りまき、
するならとことん白虎社のようになってしまえばいいのに、うなじの下は地肌が見える。
このごてごてし、なまなましくもある舞妓なるものは、
お日様の下で生きる子供にとり、とても気色の悪いものであった。

お茶屋の文化も読み知ったりと、歳をとりあたまでっかちになり、
子供のころの違和を記憶に残しながらも、興味本位でお座敷にあがった。
が、やはり、明るいお座敷の中で見る彼女たちは、
違和感のあるのみならず、いっそうの距離感を覚えさせた。

それほどまでに、我々の感性は、
ほんの五十年前の人々と変わってしまったのであろうか。
そうならば、和の文化はもはや、儚くなり、
無味乾燥なことになってしまったということである。

どうにも自分の乾いた感性がやるせなく思えた。



また別の機会に京都に行き、高台寺のそばへお料理をいただきに参った。
ちょうど、花灯籠という名前だったか、
石畳の道すがら、家々の前には橙色のやわらかい光を放つ灯籠が並べられていた。

そこで、向うの角から、舞妓さんが2人、お座敷を指してだろう、歩いてきた。


その姿は、息をのむものであった。


着物の金襴、かんざし、それらが、灯籠の弱い光をきらきらと反射する。
闇に覆われた町並みを切り取る、
張りのある着物の線と、やわらかい髪や顔や手の線が、
目をゆるがせにしない、引力ある輪郭をつくる。

そうして、橙にゆらぐ光の中で、面には冷たさと暖かさが交錯する。

野暮ったい灯籠の光の色味の中に、さっと現れた、
とても垢抜けた美の複合体でありました。

そして、その後のお食事の後には、無理を言って、
紙燭の灯りのみで、お酒を飲んでみた。

お酒をついでくださる、女将さんの弱いおしろいに映える光をみながら、
なるほど、これが舞妓さんであれば、目くるめくなぁと思った。

襟のところ、舞妓さんがおしろいを塗らないのは、
地肌を見せたいのではなく、陰をつくりたいからなのでしょう。



思うに、少なくとも都会に住むものは、あまりに煌煌とした光に慣れすぎている。

野外で食事のあと、語りながら眺める薪の火。
暗い河原で、いつまでも友達と遊ぶ我らを薄く照らす月の光。
夜の波打ち際、ときどき遠くに見える、灯台の火。
冬の夜、自転車をこいでいると気づく、オリオン座の星明かり。

たとえばこういうとき感じる、なんともいえない落ち着きを、忘れ始めている。

明るい、は、絶対善のように響く言葉に今やなっている。
だが、はっきりと見えることは、実は、何も見ていないことにもつながっていた。
たとえば、料理で、食材に熱を加えることが正しくても、
高温に長時間さらすとは、うまみを出すどころか、食べられたものではない。



おしろいは、照り映えすると同時に、陰影を映し出す。
青ざめた顔と、暖かい顔、を同時に描く。
顔という、人間の体で最も複雑な部位に、必然的に生まれる陰影を巧みにあしらう。

舞妓さんを白ボケしたお化けと思っていたのは、
私の目と頭が光ボケしていたためであった。

このものの見方は、なにもおしろいにかぎらずとも、
昔の日本芸術や、はたまた、西洋古典芸術を見る際にも通底するだろう。



最後にこの公案は、敬愛すべき大先輩、九鬼周造の文章から結語を引く。

ニーチェは「愛しないものを直ちに呪うべきであろうか」と問うて、
「それは悪い趣味と思う」と答えた。