公案1-1 死に至らない病 | 逸脱と研鑽の公案

公案1-1 死に至らない病

先日、朋友の一人が入院した。



実は私も、昨年風邪かな、と思っていたら妙ちきりんなウイルスに罹患していて、

そいつは腎臓に悪さをするらしく、病院に行ったら、そのまま1週間ほど入院させられた。




朋友も似たようなことで入院と相成った由。



「病気」ではあり、必要と判断された結果の入院に違いないが、

娑婆で生活しているときの「入院せにゃならん状態イメージ」と、

実際にそのシチュエーションが訪れたときの自分の状態は、結構異なるものである。



入院せにゃならん状態イメージとは、

「死に近づいている」という感覚をどこかに抱かせるが、

少なくとも、私や朋友の入院状態は、もっと死への道筋の手前のほうである。



「死に至らない病」とでも言えます。



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これは、現代に息づく、一種の呪いのようなものでもあり、

本人にとっては、具合が悪いこと以外は、

「医者にそう言われたから」という、他人気質な病気である。



このような病で入院すること、そのすべては、

「こいつほっとくともっと悪いことになりそうだから、

自律状態から拉致して、他律が支配する病室に突っ込んどこう」

という、医者の判断によってなされる。



よって、入院そのものは、「他律」の引導を渡される経験。

そして、医者は、「もっと悪いことになりそう」と思うのみで、

その”悪いこと”は、必ずしも死を意味せず、

めんどくさいことになる、だったりする。だから、保険的な入院とも言える。



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また、死に至らない病は厄介である。



なにせ本人が、なかなか病人ロマンに浸れない。

健康は大事であるし、重病の方々には大変失礼なことだが、

我々、どこかしらに「病弱な深窓の人」へのあこがれがあるものである。



入院するとなれば、この役割を演じることができるお墨付きをもらうようにも思うのだが、

肝心の病気にあまり深刻さがないのである。ダイレクトに死に至らないから。

せっかく入院したのに、食い足らない。



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さらに、内科系のこういった病は治療が「安静」「点滴」だったりと、とても地味である。


外科であれば、ギブスとかそういう演出装置があるのに。



そして、内科病棟の他の方々は、けっこう重篤だったり、病が深刻だったりして、

相対的に自分の病が軽微な感じがする。



いわば、刑法と軽犯罪法の差のようなもので、

死に至らない病での入院は、感覚的には、立ち小便で刑務所に行くようなものである。



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死に至らない病は、呪いのようなものであり、めんどくさく、

それによる入院は、更生施設に保険的に立ち小便で入れられるような、

バツの悪い、食い足らない、なかなかシュールなことである。



だが、入院であることには違いなく、周囲の人々には、

「死に至る病」と同じように、心配や動揺や気遣いをさせるのである。



まったくたちが悪い。



しかもよくよく考えれば、生きることは死ぬことなので、

マクロで見ると、「死に至らない病」は病ですらないのではと思えたりもする。



まあ、呪いってなんかヤなものですし、

医者は時として自由を拘束できる権力者なので、

ぜひ健康には気をつけてください。



この公案は、

「よく生きることこそが、病を無力化する」

とでも結んでおきたい。