髪を切り、ロンドンに備える。 | 逸脱と研鑽の公案

髪を切り、ロンドンに備える。

のびるに任せていた髪を切った。

髪は身体の一部にしては、ひどく乱暴な扱いが可能である。
髪は、切られることに対してはもちろん、
熱風を浴びせられようが、薬品に浸されようが、カミソリで削がれようが、
まったく頓着しない。

かようにぞんざいな扱いをしたり/されたりすることに、
この毛を生やす私自身、何の呵責も感じないのだが、
しかし、髪に対しては立派に「私の毛」という意識が定着している。

【公案1】*******************************************************
とても皮膚とかにはできない乱暴な扱いをしても平気な、髪の毛。
しかし、それでいて、皮膚と同じように「私のからだの一部」と思っているのはなぜか。
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色や髪型は、わたしの印象を大きく規定するために、
これを根拠とする説もあるかもしれない。
しかし、それであれば、髪の毛に対する意識は、衣服へのそれと同等であるはずだ。

髪の毛は、しばしば、夫の時計の鎖を買うために売られたりすることもあるので、
確かに、衣服のように「所有物」として考えられなくもない。
ともに繊維系だ。

しかし、圧倒的に違うのは、
衣服は簡単に着脱可能だが、髪の毛はそうでなく、
また、下手すると髪の毛は、ぷちん、と抜けたりしてちょっと痛いのである。

色を入れたり、ケミカルで形をかえたり、ボリュームをいじったりと、
ほぼ衣服の加工とおなじようなことができる髪の毛は、
「私の痛み」の点で決定的に、単なる所有物とことなる。

左様、この痛みこそが、髪の毛を「私の毛」たらしめる意識根拠と考えられる。
色を入れたり云々、というぞんざいな扱いは、
「痛みを感じずに髪の毛を加工する技術」の進歩に頼っているだけであり、
これがないと、皆、痛くて髪型をかえるどころではない。

手で髪をむしる、しかなければ、これほどヘアサロンは多くないはず。

だれしも、髪を引っ張られたり、挟んだりした時の痛みを知っており、
それゆえ、私の一部として、守ろうとしたりするのである。
これを背景にして、「俺の毛」という意識が生じ、
愛おしんだり、トリートメントかけたりするのである。

痛みは、嫌なこと、と思われがちだが、自分の輪郭を確かめる良い機会である。


そういえば、PostPetで有名な八谷氏らが、
他人と自分の視覚を擬似的に交換するマシンをつくっていたが、

それよりも、たとえば、蹴る/たたく/さわるなどの外物に対するアクションが、
痛覚として自分にフィードバックされるマシンなどあるといいかもしれない。

周辺への愛おしみを感じ、少し平和になるかも。
痛覚は自己意識をつくり、暴力の退行を促進しうる。

合掌。

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ということで、水曜日からはロンドンです。
10年ぶりの渡英。
ロンドンアイや、市庁舎をはじめとするリノベーションの成果物を体感するとともに、
多文化の首都で、どれだけ変で素敵なものに出会えるのでしょうか?